日本語教師の定点観測
日本語教師のための定点観測
以前のブログにも書きましたが、わたしは日本語教師になる明確な目的があり、信じられない熱量で検定に合格しました。
ですが日本語教師になって数年たち、そのときの目的は喪失、今は生活の糧として日本語教師の「職を務めて」います。
仕事なので生活の糧自体が目的であり、やりがいなど無くてもいいしそういった人が大半であることも承知しています。
ですが、何のために日本語教師をやっているのか、日本語教師て何なのか、そういった核が自分の中にないと感じたときこの仕事を続けることが不安になりました。
超短期間で検定に合格したあの異常な集中力や新人時代にあった授業への熱量はどこへいってしまったんでしょうか。
そこで日本語教育学会の研修に参加。不安を解消するための知識をつけるつもりでしたが自身の課題を解決するタイプの研修で、メンバーそれぞれが自分の解決したい課題に向き合うというものでした。教室活動や教授法などを揚げる先生が多い中、ひとりまるで根性論、このようなものを作りました。
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複合動詞あれこれ
複合動詞あれこれ
中級から熱心に上級を勉強する学生を苦しめる様々な日本語彙たち。
オノマトペはその急先鋒ですが、伏兵として学生たちを襲うのが複合動詞です。
アジアの各言語には広く見られるものですが、日本ではその数の多さと表現の豊かさが群を抜いています。
加えてこれら複合動詞が中級以上の語彙の教科書にまるで進出語彙として登場するので「どこかで聞いた気がする動詞なのになんかくっついてる!」と学生たちを混乱させます。
ここでは国立国語研究所のホームページをもとに、上級クラスで教えてた複合動詞の捉え方をまとめました。
国語研のホームページはこちら。
(レベルとしてはN1でやるのがちょうどいいかなと思いますが、語感が良い学生や例文から理解できる学生でしたらN2でもいいかもしれません。間接法で教えるならN3でも問題ないかと思います。)
複合動詞のパターン
1:VV
複合動詞という名前がぴったりなのがこのパターンです。
2つの動詞が本来の意味を保っており、どちらの動詞も述語になり得ます。
この場合の多くはVてV、VながらV、VなのでVで読み取ることができます。
語彙力がある学生なら推察して意味を読み取ることができるでしょう。
振り落とす=振って、落とす
食べ歩く=食べながら、歩く
書き溜める=書いて溜める
歩き疲れる=歩いて、疲れる/歩いたので疲れる
2:Vs
このパターンは学生たちを大いに苦しめます。
複合動詞と言いながら後項動詞はほとんど意味を持ちません。ですからVVの時のように「VながらV」など分割して読むことができないし、当然後項動詞は述語にはなれません。
降り注ぐ→降って、注ぐ?
咲き誇る→咲きながら、誇る?
書き殴る→書いたので、殴る?
この場合、後項動詞は前項動詞を修飾する、と理解できます。
降り注ぐ=(やかんなどで)注ぐように、降る
咲き誇る=誇らしげに、咲く
書き殴る=殴るように、書く
「込む」の話
語彙の教科書でもよく出てくる「込む」。この言葉は「中に/へ」のイメージの言葉で「どこに」という場所を持つ場合はVV型で理解します。
払い込む=銀行口座の中に払う (銀行口座が場所)
飛び込む=飛んで中に入る (プールや電車などが場所)
もう一つの「込む」のイメージ「そのまま動かない」というイメージの時は前項動詞を強調するVs型として理解できます。
考え込む=考えて、そのまま動かない
思い込む=思って(その思ったことが)そのまま動かない
「去る」も同じようにVVとVsの使い方があります。
走り去る=走って去る VV
葬り去る=全く無いように葬る Vs
Vsで使う後項動詞は本来の語彙より広くイメージ的に使われるので学生にとっても得意不得意別れるところですね。
3:pV
このパターンもVsと同じように学生を苦しめます。
これは前項動詞が意味を失い接頭辞のような役割を果たしているパターンです。2のVs型は修飾のような修飾ではなく、ほとんどの場合が強調する役割です。
差し迫る≠差して、迫る?迫るように、差す?
押し通す≠押しながら、通す?通すように、押す?
ひた隠す≠ひた?ながら隠す?
これらは全て後ろの動詞を強める役割であります。
意見を通す、より、意見を押し通す、のほうが強い言葉になりますね。
また、複合動詞でよく登場する「差す」もVVとpVどちらにも登場します。
「差す」単体で使うことはほとんどありませんが本来の意では「手を前に出す」動作です。これがわかるとVV型は理解しやすいですね。
差し出す=手を前に(出して)渡す
差し迫る=(すぐ間近まで)迫っている
まとめ
これ以外にも「思い出す」「落ち着く」のように一語として定着している語も
ありますし、例外もあります。
Vs・pVでよく使われる動詞は中上級の語彙の教科書には各出版社載っています。
その授業の際にちょっと話してみると覚えるだけでなく学生の推察力の手助けになるかもしれません。
だらけ/まみれ/ずくめ/だらけ
だらけ・まみれ・ばかり・ずくめ
N1で完結する「だけたくさん」文法。
例文をだして比べるとわかりやすいんですが、よく勉強している学生からは違いをもとめられがち。
前提として、この3つが選択肢として並ぶような問題はありませんが知識として持っておくのはいいかもしれません。
ずくめ
接続する言葉が限られている「ずくめ」。
黒ずくめ・白ずくめ・良いことづくめなど、半ば慣用句のような文法です。
表面のほとんどがそれで覆われている・占められている(黒づくめ)、また出来事が続く(いいことづくめ)というときに使いますが汎用性はありません。
赤づくめ、泥づくめなどで使うと違和感があります。
まみれ
表面のほとんどがそれで覆われている、という点では「ずくめ」と同じです。
「まみれ」の場合はいろいろな言葉に接続できるのですが、話す人にとって嫌なもの・汚いものという制限があります。
血まみれ、泥まみれなどで使います。
子供の顔がチョコまみれだ。
この場合、チョコレート自体は嫌なものではありませんが、「あーあ、洗うの大変じゃない」というお母さんの嫌な気持ちを内包するような文になります。
だらけ
他にもある中でそれがたくさんあり、しかも目立っている、時につかう「だらけ」。
覆われている「まみれ」と近く、少し印象は変わりますが置き換え可能な場合も多いです。
血まみれ⇆血だらけ
泥まみれ⇆泥だらけ
まとめると
だらけ:それがたくさんあって目立っている(嫌なもの)
まみれ:それでほとんどが覆われている(嫌なもの)
ばかり
用法が多く学生を苦しめる「ばかり」
ここでは、全体のなかでその割合が多い、の意味です。
この「たくさん」の意味の「ばかり」ですが、名詞に接続する場合とて形に接続する場合で意味が変わります。
N+ばかり:それがたくさんある(存在)
て+ばかり:それをたくさんする(頻度)
勉強している学生ほど、「あれ?まえに『たくさん』てやったような…?」と混乱しがちです。
いざ急に質問されると、わたしたちもシンプルに説明できないものです。
そういう時は変に言葉を重ねず「ちょっとシンプルでスマートな説明準備するから!」と言ってしまうのが良いかもしれません。
不・未・無・非-使い分けのためのイメージ-
不・未・無・非 -使い分けのためのイメージ-
日本語の試験で必ず見かけるいわゆる「語形成」の問題。
たとえば、JLPT N1の教科書から。
このソースは、香辛( 味 料 剤 )をたっぷり使っているから香りがいい。
この語形成、文法や語彙がかなりできる学生でも苦戦します。
ここでは学生を悩ます4大否定漢字の特徴をまとめました。
不(ふ・ぶ)
否定の漢字の代表格「不」。
これは後ろの漢字語彙を「~じゃない・~しない」と打ち消す時に使われます。
英語で置き換えるとNOT~。
不注意:注意しない・していない
不信 :信じない
不完全:完全じゃない
不透明:透明じゃない
未(み)
同じく否定の漢字「未」
この漢字は「未だ(まだ」と読めることからもわかるとおり、
「今はまだ~ない」という時に使われます。
また「今はまだ」なので、「今後かわるかも」という意味を含みます。
未完成:今は完成していない(今後完成するかも)
未承認:今は承認して・されていない(この後承認されるかも)
未定 :今は定まっていない(この後定まるかも)
無(む・ぶ)
現在の否定「未」に対応する部分もある「無」
この字は「不」と混乱しやすく、学生から「なぜ無ですか、なぜ不ですか」と質問されがちです。
この漢字は「ここにない・今ないし、これからもない」です。
後ろの語彙の否定の「不」とは少し違いますね。
また「今後かわるかも」の「未」とも違います。
英語にすると「無」のイメージはNo Exists。
無関心:今は関心がない(これからもない)
無礼 :今は礼節がない(これからもない)
無報酬:今は報酬がない(これからもない)
無意味:今は意味がない(これからもない)
例えば「無報酬」ですが、これを「不報酬」とするとどうでしょう。
「報酬じゃない」になり、意味が変わってしまいます。
「無」のイメージは「~じゃない」ではなく「~がない」ですから、ここで「不」と使い分けるといいかもしれません。
非(ひ・ぴ)
これもまた「不」「無」と混乱しがちな漢字です。
持ってる漢字のイメージとしてはかなり明確ですが、突然問題として出てくると回答として選ぶには勇気がいります。
この「非」、漢字の形を説明してあげると一気にイメージが具体的になります。
この字は鳥の羽です。鳥の羽は当たり前ですが、皆同じ方向に向かっています。逆らっているものはありません。「羽」という字を見ても同じ方向を向いていますね。「非」、これは一枚だけ違う方向を向いている、他の羽に逆らっている羽です。
つまり、この漢字の持つイメージは「逆らう・背く」。
英語ではstill/remain/disobey。
もう少し具体的にまとめると、「本来あるべき正しいもの・正しいとされているものがあって、それから外れている」という時に使います。「不」の「~じゃない」より強いイメージがあります。
非常識:常識から外れた、背いた状態
非正規:正規から外れている
非効率的:効率的から外れている
「非正規」は「良いとされている雇用形態の正規の範囲にない雇用形態」と読み解くことができます。「不正規」でも意味は通ってしまうのですが、「その範囲にないよ」という意味をもたすことはできません。
N3レベルでまだまだ英語に頼っている学生に使うと逆効果になると思い、英語は上級の学生にのみ使いました。N3途中の学生に英語を入れると、おそらく大混乱になるので注意が必要です。
おまけ
ここまで話してまだ時間や自分・学生に余裕があれば、こんな話をしてみるといいかもしれません。
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私たち日本人は第二次世界大戦(World War Ⅱ)のあと、大切な約束をしました。あの戦争で、おそろしい爆弾が日本に落ちました。たくさんの人が死んで、いまでも苦しんでいる人もいます。
もう同じことが世界中で起きないように、3つの約束をしました。
大戦のあと、世界の大きな国は核(nuclear)を作り始めました。でも日本はそれに参加しません。他の国が核をもっても、私たちは持ちません。
3つの約束は「三原則(principle)」。Nuclearは核。
〓核三原則です。
さぁ、ここには「不・未・無・非」どれが入るでしょうか。
他の国が「核はいい」と考えても、わたしたちはそれに賛成しません。ですからここには「非」が入ります。
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インドの学生にはこんな話をしました。
ガンジーのBloodless independenceは「無血独立」 と訳されています。きっと「インドの独立には今までもこれからも血は流させない」というガンジーさんの信念へのリスペクトを込めて「無」が使われたのかもしれないよ。
この話はどちらもYoutube大学か?ってくらいのテンションでやりました…
この授業をしたのは、まず語彙の授業が単調になりやすいから、たまには教科書じゃないことをやってみたかったというのが始まりでした。またひたすら暗記に走りがちな語彙を、パターンから推察する足場を作ってあげたかったというのも大きな理由の一つです。
もちろん例外もありますが「言葉ってたのしい」を伝えるクラスもたまにはいいかもしれません。
検定だけ日本語教師の悩み
日本語教師として働き始めて数年ほど経ちます。
先にも書いていますが、私は養成講座を受講しておらず検定合格からこの道へ入りました。
「日本人だから誰でもできる仕事でしょ」と思われがちなこの仕事、養成講座に通わず教師になった道中を振り返ってみたいと思います。
日本語教師を目指したきっかけというか動機はかなり不純なものでした
(動機はまた別の話)。
当時自営業のような仕事をしていたので、お金にも時間にも余裕がなく検定から教師になる道を選びました。
当時の異常なモチベーションと勉強方法はこちら。
合格したものの、どうやって就職活動をしていいかもわからず、とりあえずIJECの合同説明会に参加しました。
そこで初めて、養成講座を受けていないことの重大さにぶつかりました。
用語
まず、当たり前のように飛び交う用語がまったくわからないのです。
ってなんですかー?
「みん日」がみんなの日本語を指すことを知ったのはそれよりさらに先です。
「検定合格しただけで…」のあとに続ける言葉も見つかりませんでした。大体の学校は採用試験に模擬授業がありますがまず日本語の授業を見たことない私にとって、これはとんでもない難関でありました。
「もし今お持ちでしたら、教案をみせていただけますか」なんて言われたときは
「はて教案…」となり、そんな私を見たときの担当の方のあっけにとられた顔はいまでも覚えています。
合同説明会では各学校特色をアピールするのですが、知識皆無のわたしにはそれすらもピンとこず。
「うちはみん日じゃなくて、できる日本語をつかっているんです」
「うちでは教案もスライドも全て用意されています」
「うちでは●割の学生が大学に進学しています」
へー。以上思いようがないのです。
結局模擬授業不要、面接不要というかなり変わった学校に採用していただき、非常勤としてのわたしの日本語教師キャリアはスタートしました。
採用してくださった学校には今もこれからも感謝しかありません。
授業
そもそも私が持っている知識が異常な短期間で詰め込んだ知識だけだったので、授業が始まってからは地獄でした。
体系的に文法を学んでおらず、教科書の構成もしらない。授業見学は2回ほど。教案のチェックはなし。
結局学生に教える1週間前に自分が勉強している、という有様でした。
ます形しか勉強していないクラスに辞書形ぶちこんだり、「大きな家」と禁句連体詞を連呼し学生に「大きい、はな形容詞ですか」と混乱させたり。挙げればきりがありません。
その学校の専任の先生のスタイルが「とりあえずやってみて、あとでフィードバックします」。そのフィードバックに怯えたものですが、内容はというと
・スライド画面いっぱいまで文字入れると見にくいよ
・教師が動きやすいように少し机の位置変えた方がいいよ
などなど、文法知識やクラスコントロールについての指摘がほぼありませんでした。
食い下がって聞いてみると
「だって経験がないんだし、そういうのはこれから積み上げていくものでしょ」。
この一言で、どれほど心がかるくなったかわかりません。
秋から別の学校のかけもちも始めました。
ここがまた全くやり方の異なる学校で、半年間教案を毎週提出しなければならなかったのです。
未習語はつかわない・学生の間違いをわらわない・教案に書いてないことはしゃべらない・ホワイトボードはもっと計算してつかうように…などなど。
ひとえに、新米教師を育てるためにという親心からなのですが、それまで教案チェックやきついフィードバックなく、直されることに慣れていない私にとっては苦痛の連続でした。
今となって思うのは、養成講座の内容を実践の中で教えてもらっているようなもので本当にありがたいことでした(当時はけっこうイライラしてました…先生すみません…)。
そんなかけもちを続け経験値を高め、授業前日に毎週「今週こそ死ぬ…」と思いながら準備していたのはいい思い出です。
わたしの先生
合同説明会では必ずどこの養成講座出身か聞かれます。後から考えるといわゆる「どんな先生に師事していたか」ということなのでしょう。
当たり前ですが私には先生がおらず、これは後々大きな不安につながります。
私の場合、上司にあたる?専任の先生、先輩非常勤や同僚非常勤の先生に恵まれていたので授業内容の相談や授業の愚痴、情報交換などは事足りていました。
ですが自分にとって「教えるということは、学び続けること」であり、先生がいないということが恐怖に思えてしかたありませんでした。
これは以前まったく別のジャンルの養成講座で学んだことですが、自分にとっての指針・戒めであります。
今考えるとおかしい話ですが「だれか先生になってくれないかな…」とそのために養成講座に行こうかと考えるくらいでした。
この悩み、今はしっかり解決しています。
変な巡り合わせですが、前職のお客さんで飲み友達のオジサマが実は超ベテランの日本語教師でした(この道50年とかいうレベル)。
しかもいまだに現役で、古い教授法にとらわれない人。
日本語教師になってから初めて飲みに行ったとき、驚きました。
「最近、どうやったら外国人が漢字をおぼえるか、ずっと考えてるんだよ」
大学の日本語教育カリキュラムを立ち上げ、養成講座で教えて、海外の大学に客員で招かれて尚、教え方を考えていました。
飲みの最後、「あんた俺の弟子な、最後のやつ」といわれ、私の悩みは解決です。
そのまま私はインドへ行き四苦八苦しながら日本語教師を続けています。
実際そのオジサマに何かを聞くことはありませんし、ずっと連絡はとっていません。
が、「わたしの先生」がいるというのは、こんなにも心強くなるものかと実感しています。
「検定合格?!すごいですね!」なんて言っていただきますが、それなりに感じたことを書いてみました。
結局書いていて思うのは、どちらにしても登る山はおんなじで登山口が少々異なるだけだということであります。
インドの日本語教育事情ーオンラインクラス篇ー
以前インドの日本語教育について、倩と書かせていただきました。
詳しくはこちら。
今回はコロナ禍によるロックダウンからのインドのオンライン授業事情について、私が見聞きしたことを書いてみようと思います。
インドのインターネット事情
まずもって日本と大きく違うのはインターネット環境です。
観光地のホテルやカフェ、レストランはほぼ全てwi-fi完備。旅行で北インドを訪れた時は心底日本はwi-fi後進国だと感じたものです。ですがそれは観光地の話。観光客が訪れない街ではそこまでwi-fiスポットはありません。
次にスマートフォンについて。
インドでは日本と同じように巨大キャリアが3社あります。JIO・Airtel・Vodafone(なつかしい!)。
巨大キャリアの戦略で、日本と違って固定電話が普及していなかったインドでは数年前からスマートフォンが爆発的に普及しました。スラムに住んでいて明日のご飯がない人ですら、スマートフォンは持っています。
このスマホ、日本と大きく違うのは料金です。とにかく安い。そして前払い(プリペイド)が一般的です。
私が使っていたのは89日間2GB/日=約1,000円!
物価を合わせてみても日本の感覚でおよそ4,000円です。
ですがインターネット環境は千差万別でした。
ある学生は「毎月200GBありますから」
また別の学生は「うちは高速インターネットがありません」
また別の学生は「母のでんわをつかっています」
同じような環境でオンラインクラスをするのはなかなか難しいのが現状でした。
駄目押しとして、wi-fiがあったとしても停電がしょっちゅう。そしてみんなが電話をつかっているであろう時間はかなり通信速度が遅くなります。
インドが他国と領土を争っている国境付近の州では、安全保障のために国がインターネットを遮断していることがあります。パキスタンと領土をあらそっているジャンムーカシミール州。政府の法案に反対したムスリムを中心とした非ヒンドゥー教信者が暴動を起こしたアッサム州。日本では国がインターネットを遮断するなんて考えられませんが、まだまだ情勢が不安定な国ではこういったこともあり得るのです。
ロックダウン
インドの日本語教育は対面授業が主流です。もちろんビジネスとしてオンラインクラスを展開している学校もありますが、大半は対面授業です。
今回のコロナ=ロックダウンにより、期せずして日本語学校はオンラインクラスをしなければならない状況になりました。
(日本の緊急事態宣言どころではなく、ロックダウン下では政府から学校をクローズするよう御触れが出て、警察が取り締まりをしていました)
ちょうど7月のJLPTにむけたコースが半分を終えたあたりでのロックダウンです。
学費を払い終えていても、未払い金があったとしても引き下がるわけには行かない時期でした。
他校の先生たち(日本人)に聞いてみたところロックダウンがいつまで続くかわからないので様子見という学校がほとんどでした。
が、結局ロックダウンの先が見えずほとんどの学校が(とりあえず)オンラインクラス
を開始しました。
私はというと、学校担当していたプライベートクラスが3つありました。2人はオンラインクラスを、1人はインターネットがないということでオンラインクラスはなしになりました。
元々対面授業でN3、グループクラスよりぐっと距離が近い学生だったのでオンライン授業は問題なくコース終了することができました。
オンラインクラス
オンラインクラスをせざるを得ない状況になってインド人の先生たちは困ったと思います。
さきのブログで書きましたが、インド人の先生は「教える勉強」をしていません。
教え方は自分が習った先生の影響を大きく受けます。学生は様々な先生に習うことを嫌います。教える立場になっても他の先生の授業見学などしません。
つまり教え方にレパートリーがない先生がほとんどです。
色々な考え方がありますが、オンライン授業は対面授業とはちがう準備が必要です。
それほどPCを使いこなせない先生たちがたとえばZOOMのホワイトボードをつかって日本語をタイピングしてカーソルを動かして説明する、これができない先生は多いでしょう。
まえもってスライド(のようなもの)、教科書データなどを準備しておかなければなりません。ですが、インド人の先生は授業の準備をしません。
(授業の準備の是非は別の機会に。ただ私が出会った日本人日本語教師で準備をしない人は1人もいません。同じ課をやるにしても、初級であっても必ず準備をします。先生としてではなく、在外邦人の副業として先生をやっている人で準備をしない方に出会いましたが、授業が成立して学生が満足しているならビジネスとして正解ではあると思うので何がいいかはまた別の話)
授業の90%先生が話すというのが通常のスタイルです。これをオンラインでやるとどうなるか。想像に硬くないでしょう。
双方向性をもたらすビデオ会議ソフトなのに、先生が延々喋っていては対面でも眠いのにオンラインではかなり辛いものになるでしょう。
この記事を書いている7月現在、デリー近郊でオンラインクラスをやっているのはおそらく3校のみ(ロックダウン前には70以上あったとか)。日本人が経営している学校と半官半民の学校です。
そのうちの1校はやはりオンラインクラスに学生が半分もきておらず続けるのがしんどいと言っていました。
前のコースの学生はともかく、通常7月から始まる新コースの集客はどこもかなり苦戦している様子です。
オンライン授業あれこれ
わたしは主にZOOMを使っているのですが、このソフトについても学生やスタッフがそれぞれ好きなことをいいます。
ZOOMはコロナをきっかけに一気に世界に広まりましたがお約束のように脆弱性の指摘がありました。しかしこれについてはニュース記事をしっかり読んでパスワードを飛ばさずにおけば大して問題ないと判断できる内容です。
ですが「ZOOM=ヤバイ!」というタイトルだけで学生が大騒ぎ。ZOOM使用禁止の会社の通達を私に見せてくる学生まで現れました。
わたしが所属していた学校では、運営側がSkypeをゴリ押し。理由は開始ー終了時間がチャットルームに残るから。管理第一に考えるとそうなんですけど、先生たちの使いやすいは一切考慮されませんでした(笑)
「いやいや、IDとパスワード聞いておいて管理スタッフが授業やってる時間にみまわればいいでしょうが」と思ったもんです。
このオンライン授業のゴタゴタは準備期間なく始まったことがいちばんの大きな要因ですが、それでも今まで当たり前とされてきたインドの教育環境や教授スタイルを再考するきっかけになったのではないでしょうか。
様々な問題が見えたわけですが、これを可能性にインドの日本語教育がさらに発展することを願ってやみません。
中級語彙 おき/ごと
中級語彙のおき/ごと
人志松本のすべらない話で古舘伊知郎が話していたので、ご存知の方も多いと思いますが自分の整理のために。
日本語教師になって間も無く学生から聞かれて真っ青になったことを思い出します(笑)
比較①
○東京では5分おきに電車がきます。
○東京では5分ごとに電車がきます。
→どちらも意味はわかりますし、この場合2つの文の意味は同じです。
比較②
○ハレー彗星は数十年おきに地球の軌道近くを通ります。
○ハレー彗星は数十年ごとに地球の軌道近くを通ります。
→どちらも意味はわかりますし、この場合2つの文の意味は同じです。
比較③
○1日おきに牛乳が配達される。
○1日ごとに牛乳が配達される。
→どちらも意味はわかります。が、2つの文の意味は同じではありません。
例文すべて意味はわかりますが、比較③の場合意味が変わってしまっています。
まとめてみましょう。
「おき」「ごと」。この言葉は前にくる時間を表す言葉によって意味が同じになったり異なったりします。
前にくるのが「小さな時間の言葉」の場合(3分、2時間、半日)、2つの言葉の意味は同じです。
また前にくるのが「大きな時間の言葉」の場合(数十年、100年、半世紀)の場合でも意味は同じです。
困るのが「真ん中の時間の言葉」の場合です。
比較③、これは両者の文の意味は異なります。
「おき」だと、月水金。
「ごと」ですと、毎日。
1年、を入れてみてもやはり意味は異なります。
5年の場合はどうでしょう?
5年おきに引っ越している
5年ごとに引っ越している。
→同じですね。
つまり、1日〜1年(くらい)という時間の言葉の場合、特別に意味が変わるんですね。
違いを求めがちな学生に聞かれたら「2つの言葉は同じように使うことができます。ですが、1日〜1年という時間の言葉だけ注意しましょう。意味が同じじゃありません」と教えてあげるといいかもしれません。
鬼門ーNによるN。
N3文法の鬼門の話です。
大いに苦しみましたし、いまでもこれが正解とは思っていませんがこんな感じで授業をしておりますの例としてお読みいただければ。
TRY・新完全マスター・スピードマスターなど文法解説の接続説明にさらっと書かれている鬼門。
N+によって
N+による+N
N+に対して
N+に対する+N (他にもあります)
さらりと書かれてる「・・・+N」、ここには大きな魔物が潜んでいます。
「はい、connection注意ですよー。うしろが名詞だったら形が変わりますからね!」
………N3くらいになると例文の構造が複雑になり始めるので、かなりの文が「うしろに名詞」なんです。素直な学生たちはみな「名詞だ!」と信じて機械的に選びます。「うしろに名詞」という呪いがかかった学生が陥るのが次の間違い。
・A市では、町の開発計画(に対して/に対する)住民から不満が出ているそうだ。
→答えは「に対して」です。 <TRY!より>
ですが学生に言われがちです。
「先生、住民は名詞です。どうしてですか」
中級の学生はクラス内での学力差も大きく、この段階では説明らしい説明はなかなかできません。
わたしの場合はプライベートクラスでしたが、まぁ 地獄でした。
補足:TRY!の場合、この「うしろに名詞」が初登場するのが「AによってB(手段)」続けて「Aに対してB(対象)」なんですね。よりによってN3の文法の中でも説明乱発しがちな文法で初登場です。
1:N4の復習
「ちょっとN4の復習をしましょう!」とまずは連体修飾について触れます。
後続句の文法はみな頑張って覚えるんですが、連体修飾はよく勉強する学生でも忘れがちです。
「これは本です」「昨日買いました」⇨ながいです、1つにしたいです。
昨日買った本です。
「あれは俳優です」「私は好きです」⇨ながいです、1つにしたいです。
私が好きな俳優です。
しつこいですが、ここで変換練習をいれてもいいかもしれません。
学生が節を作れるようになったところで、
普通形+名詞は、大きい名詞です。普通形の文は名詞を説明します。
とまとめます。
私は今後の説明が楽なので「大きい名詞」という言葉で表してます。
この確認ではごくごく簡単な例文を使います。文型に集中してほしいので、未習語や既習語でもあまり定着していないと感じた言葉は使いません。
「普通形の文は名詞を説明します」これも「plain form の sentenceはnounをexplainします」ぐらい言う時もあります(わたしの英語はN5くらいです)
2:文の分解
文が名詞を説明することがある、というのを思い出させてから次の段階です。
前出の例文で考えてみます。
・A市では、町の開発計画(に対して/に対する)住民から不満が出ているそうだ。
後ろから考えてみましょう。
学生が固まったり混乱するといつも「はいはい!大丈夫!もうね、シンプルにしましょう。まずは文のボーン(born骨)を考えましょう!」と言っていました。
不満が出ています+そうだ(伝聞)=不満がでているそうだ。
↓だれから?どこから?どこで?
A市で、住民から不満がでているそうだ。
これがこの文の骨格ですね。
じゃあ残りの節「町の開発計画(に対して/に対する)」について。
これは大きな名詞ですか?それとも不満のパワーの方向(direction)ですか?
感のいい学生だと、「町の開発計画」が「住民」の説明にならないことはピンと来てくれます。
住民は不満です。なにに?⇨町の開発計画に⇨開発計画に対して不満です。
※「〜に対して(対象)」ご覧ください。
ここでもう一つの例文をするといいかもしれません。
社員の要求(に対して/に対する)会社側からは何の回答もなかった。
(教科書ではこの例文が先にありますが、「なんの」とか「も」など文法要素が多いので、順番を入れ替えることもあります)
早い話、「この塊が何の説明をしているか」なんですがN4終わったばかりでこれが理解できる学生はなかなかおりません。
なんなら初級の連体修飾節をスルーしたままにしておきたい学生がほとんどだと思います。ですからコース初めのうちのこのステップで連体修飾からは逃げられないことを
見せておくのが肝要かと思います。
先生の宿題
わたしはこのステップをせず地獄になりました。その日は「ごめん先生の宿題!」といってこの部分を中断しました。
この時の学生は中断に対して何の不快感も見せず、むしろ次の説明を楽しみにしてくれるような学生でした。ギャーギャー言う学生だったら不要な説明を並べ立ててねじふせていたかもしれません。
満を辞して再挑戦。
この時は「〜に対して(対象)」のリベンジも兼ねていました。
厳選した無駄のないことばで例文から示したところ
「ぁー…わかりました。教科書の英語の説明より先生のほうがわかります」
これ以降は簡単でした。
「はい、文で大きい名詞を作りたいときは形かわりますよー」
再挑戦の機会を与えてくれた彼には今でも感謝しています。こうやって自分も学んでいくんだなと改めて実感したときでもありました。
この記事は「うしろに名詞」の呪いを解くステップを私なりにまとめてみたものです。
私はここを簡単に通ろうとしたため地獄をみました。
もし 「うしろに名詞」の呪いにかかった方がおられたら、お祓いよろしく軽い気持ちで読んでいただけたらうれしいです。
インドの日本語教育事情
インドは広く、民族・言語・経済状態が地域ごとに大きく変わります。わたしがいる首都デリー周辺の日本語教育事情(2020)について、ほぼ所感ですが書いてみようと思います。
インドの公用語は憲法上ヒンディ語となっていますが、21の公的言語も明記されています。また州毎に「州言語」が制定されており、とても複雑。都市部では英語ができる人が多いですが、所謂「ヒングリッシュ」で、イギリス英語なんだけど発音がカスタマイズされており私たちが学校で習ったアメリカ英語は遠からず、と言った感じです。
首都デリー近郊の日本語教育機関
デリーと近郊都市グルガオン ・ノイダには100近い日本語学校があります。
デリーって首都なんですけど実はかなり北にあります。
コルカタ(旧カルカッタ)・ベンガルール(旧バンガロール)・チェンナイ(旧マドラス)・ムンバイ(旧ボンベイ)などの大都市には大学や民間学校、技能実習生研修所などさまざまな日本語教育機関があります。
もちろんピンキリです。首都デリーには半官半民のMOSAIという学校があり、デリーにおけるJLPTなどはこの学校が取り仕切っています。
こちらの学校、進級できる人数が限られており上級に進むにつれて少数精鋭になっていいくという、かなりシビアな学校。デリー近郊の民間学校にはこのMOSAIで進級できなかったんだろうなという学生が多く流れてきます。
また日本語センターという老舗の学校があります。こちらは日本人の那須川先生という方がまだ全く日本語人気のなかった時代から続けてこられた学校です。
この2校が有名どころですが、徹底した直接法の学校や大人数クラスで学費が安い学校、毎月コースをスタートさせる学校や社会人の夜間クラスがある学校など、それぞれの学校が特色を見せています。
国際交流基金のオフィスもありますし、青年海外協力隊から日本語教師が派遣されたりと、この数年で日本語教育は注目されています。
先生について
文法訳読法が主流
日本では「教えない教え方」や「コミュニカティブメソッド」など聞いて久しいですが、インドでは未だに文法訳読法が主流です。
「意味はなんですか?」が最も多い質問で「どのように使うか」はほとんど教えられません。
学校のテストでも「日本語→英語・英語→日本語」の翻訳の問題があり、ヒンディ語ならわかるけどなんで英語?と頭を傾げたものです。
後にも述べますが、ここでの日本語教育とはイコール翻訳の勉強なのです。
また文法訳読法なので当然間接法であり、先生たちも正直全然話せません。N3に合格していても会話はN5レベルの先生なんてのはザラです。
会話の授業を頼まれた時「この文法を使って会話をしてください」と言われ???となりました。
象徴的だったのが、みんなの日本語の練習Cと会話の使い方。
ただ読んで、先生が意味を説明。以上。
この練習Cや会話って色々できるところなのにと驚きました。会話の授業自体にとてつもない憧れを持っているのは見て取れるのですが、どうやったらいいのか先生自身が知らないという状態です。
教師養成
日本語教育能力検定試験、日本語教師養成講座。ありません。
JLPT合格イコール先生になれるという日本では考えられないシステムです。
国際交流基金が開催している養成講座を受講した先生はごくわずか。あとはJLPTの実績で採用します。
「は」と「が」の区別ができない先生が初級教えてるのもザラです。
先生たちも自分が受けるJLPTの勉強はしますが、ティーチングスキルについて勉強しているインド人の先生は見たことないですし、教え方を相談されることもありませんでした(単純に答えとか意味とかはすぐ聞いてくる)。
わたしたちと「教職」の概念が違うからか、N5合格しただけで学校を開く人もいると聞きました。逆にすごいですよね。これも合格イコール教えれる、なんです。
「わたしは合格したので教えることができます」。何度も聞きました。
ただここにはカーストという文化も大きく関係しているのかもしれません。教職=人を導く仕事は誰でもなれるわけではないのだと思います。逆にそのカーストにいる人はJLPTを取れば免許よろしく教職につけると考える人もいるのかと。
またスタンダードがなく、アイディアの盗作が常態化しているからか、多くの学校が閉鎖的です。実際見学を断られた学校もあります。
対して日本人がオーナー若しくはマネージャーを勤めている学校は授業のフィードバックを求められたりとオープンです。
私が勤めていた学校もインターンに授業見せてあげてと頼むと「ここで働くかわからん奴に見せるのはいやだ。真似される」と言われました。正直、真似されるような陳腐な授業を君はしてるのか?と思ってしまいましたが。
学生について
日本語を学ぶのは大きく分けて大学生と社会人です。
インドの大学制度がよくわからないのですが平日午前週3回のコースには大学生が多く参加しており、いつ大学行ってるんだ?といつも思います。
そして社会人は日系企業で働く、あるいは働きたい人たち。
JLPTの受験者構成比を見るとデリー近郊は学生の割合が多く、東部プリーや南部バンガロールの受験地では社会人比が高いです。
薄い来日志向
インドで教えて一番驚いたのはこれです。15人ほどのクラスで聞いてみても日本へ行きたいと答えるのは1人ほど。旅行でなら行きたいが半数程度。なんなら日本へ行きたいと思わない学生すらいます。
じゃなんで日本語勉強してんの?と聞くと「日本にはいきません。インドにある日系企業で働きたいです」。
じゃあ日系企業でなんの仕事したいの?と聞くと「通訳と翻訳の仕事がしたいです」。
ですから未だに文法訳読法が主流なんですね。
大学などごくたまーに「日本のアニメ&漫画好きっス!」みたいな子がいますが、日本の文化に興味がある学生はわずかです。
カンニングも努力のうち
百歩譲ってJLPTなどの検定ならともかく、簡単な小テストなどでもカンニングは横行します。
なぜカンニングをするのか問うと「わからないから」とまるで禅問答のような答えが返ってきます。
また驚いたのがカンニングした答えが正解だとガッツポーズ。「いや、それあなたの答えじゃないから」と少しくらい背徳感を感じてほしいものですが、喜びます。
見る側もですが、答えを見せ合ってるんですよね。
見せる側に問うと「困っているから助けました」とまたも禅問答。
つくづくこれも勉強の一つの手段なんだと思わされました。
一度カンニングをさせないようにスマホや教科書を別室に移動させたら「厳しすぎる」とクレームがきました笑
そのカンニング横行が知れ渡った結果、入管がJLPTやNAT-TESTを全く評価しないという方向に傾きつつあります。留学の査証審査の際、JLPTやNATの項目がすべて無視されるというケースが何件も出ているようです。これじゃビザが出るかどうかは運次第ということになり、本当に努力している学生にはなんとも酷な話です。
これは
ここに書き連ねたことは、同じインドでも場所・時期・立場が変われば全く違うものになるでしょう。あくまで私が見た光景のいくつかを切り取ったものであります。
そう思うと、同じように重なる光景はどこの教育機関でもあるのかもしれません。
もしご自分が所属されてる場所に疑問や不安を感じている方がおられたら、ちょっと他の学校はどんなんかしら、海外ってどうしてるのかしら、と箸休め程度に読んでいただければと思い書いてみました。
考えれば考えるほど、場所や方法が変わっても私たちがすることの真ん中は、どこも同じなのだと気づかされるばかりです。
N3 文法 〜たばかり/〜たところ
N3文法 〜たばかり/〜たところ
Aたばかり:Aをしてすぐ
Aたところ:Aをしてすぐ
同じですね。N3の教科書に登場する「ばかり」「ところ」。
中級入り口の難所といってもいいかもしれません。
多いんですよね、「ばかり」「ところ」。うじゃうじゃあるんですよ。
初級になかった「用法が多い」「似てるのがある」なので、N4の延長で来ている学生は多いに苦しむでしょう。
「ばかり」「ところ」、似てますね。
同じですか?ちがいます。
この文法について、N3の段階で厳密に違いを説明する必要はありません。
ですが続く「ばかり天国」の道中、学生に違いを求められたらこんな感じで伝えてみるのはどうでしょうか。
まずは比較しましょう。
比較①
○さっき聞いたばかりだから、まだ考えがまとまっていない。
○さっき聞いたところだから、まだ考えがまとまっていない。
→違和感ありません。ですが受ける印象が少し違います。
比較②
○先月店を始めたばかりだから、まだまだ客足はにぶい。
×先月店を始めたところだから、まだまだ客足はにぶい。
→「〜たところ」は違和感があります。「先月」をカットするとまぁ使えないこともない、という印象に変わります。
比較③
×駅についたばかりに、メールが来た。
○駅についたところに、メールが来た。
→「〜たばかり」はとてもおかしいですね。
まずは比較③からみてみましょう。
これは接続の問題です。文法の接続は動詞の活用に目が行きがちですが、この場合は後ろの助詞が大切です。「〜たばかり」は助詞「に」に接続することができません。
反対に、「〜たところ」は「の」に接続することができません。
例:○食べおわったばかりのタイミングで彼がきた。
×食べおわったところのタイミングで彼がきた。
次に比較①。受ける印象は違いますが、意味は通ります。
比較②の例文をみてみましょう。「先月」という語彙がネックになっています。
「先月」というと、この2つの文法の意味「〜てすぐ/〜した直後」と合わないですね。ですが、「店を始めたばかりで〜」この文法は○です。
つまり「〜たばかり」は時間的にすぐ、ではなく話者の感覚で「まだ時間がたっていない」と感じる場合は使うことができます。
反対に「〜たところ」は感覚ではなく時間的に「〜した直後」を意味する文法と言えます。
「〜たばかり」のほうが時間の幅があるので、どちらにも使うことができます。
違いを求めがちな学生に質問されたら、
「どちらもVしてすぐ、だね。でも『〜たばかり』はあなたのフィーリング、『〜たところ』は時間。接続は注意してね」と説明しすぎずに言ってあげるといいかもしれません。
初級語彙 いち・ひとり・ついたち
「私は日本でいちにん暮らしをしています」
「兄弟はにひとです」などなど。
超初級で学ぶにも関わらず、上級者になっても誤用がつづく日本語の数字。
小さい時から使っている私たちにには当然のことですし、物心つく前に覚えてしまったので何の疑問もありません。
でもよく考えてみると、結構不思議なものなのです。この日本語の数字。
上級学習者がもし興味をもったら、こんな小話をしてあげるといいかもしれません。
※わたしは言語学者じゃありませんので、ここに書いていることも諸説ありますし地域によって言葉がちがうと思います。ここではあくまで語彙への興味をもってもらうための一つのエピソードとして書かせていただいてます。
ただの数字
いち・に・さん・よん・ご・ろく・なな・はち・きゅう・じゅう
人数
ひとり・ふたり・さんにん・よにん・ごにん・ろくにん・ななにん・はちにん・
きゅうにん・じゅうにん
日にち
ついたち・ふつか・みっか・よっか・いつか・むいか・なのか・ようか・
ここのか・とおか
(20日=はつか)
並べると???となりますね。
1=いち・ひ?
2=に・ふた?
3=さん・み?
ここで日本語の数字には読み方が二つあることに気がつきます。
これは他の多くの漢字と同じ、音読み・訓読みです。
音読みは中国から入ってきた読み方=漢語、訓読みは日本古来の読み方=和語。
数字では、
いち・に・さん=音読み 漢語
ひい・ふう・みい=訓読み 和語
つい数十年前まで、この和語の「ひぃふぅみぃ」は使われていました。
人数の「ひとり・ふたり」について、3人から急に漢語の「さん」が来るのは学生にとっても困りごとですし、日にちは和語で読まれます。
日本語を勉強する学生からすると、とても難しいですね。
上級学習者がもし興味をもったら、こんな小話をしてあげるといいかもしれません。
ひい・ふう・みい・よ・いつ・む・なな・や・ここ(の)・とお
これは和語の数です。
そして昔は人数を数えるときは
ひとり・ふたり・みたり・よたり・いつたり・むゆたり・ななたり・やたり・ここのたり・とたり
と言っていました。今では人の助数詞は「人=にん」ですが、つい数十年前までは「人=たり」も使われていたそうです。
また日にちもおなじです。
ついたち・ふつか・みか・よか・いつか・むゆか・なぬか・やうか・ここぬか・とをか
と言っていました。「日=にち」ですが「日=か」と読んでいたんですね。
ものを数えるの助数詞も同じです。今は「個」がありますが、和語で使われていたのは「つ」です。
ですからひとつ・ふたつ・みつ・よつ…と言っていました。
日本語教育では数字を教えるとき、漢語のいち・に・さんを教えます。
それは漢語のほうが今は圧倒時に多いことと、例外が少ないからです。
ですが、漢語と和語が両立して使われる言葉のうち、和語しかないもの・特に「ついたち」「ひとり」などは、教科書を作る際和語のまま採用されたのかもしれません。
たとえば和語で31日をいうと「みそか あまり ついたち」と言います。
ながいですね。「さんじゅういち にち」のほうがルールが簡単です。
同じように 58人を和語でいうと「「いそ あまり やたり」。
849は「やお よそ あまり ここ(の)」でしょうか????
(10の位=そ、100の位=お、で表していたようですね。八百屋=やおや、はここの和語数字の読み方がそのまま残っています)
なんにしてもながいです。
雑談がてらこんな話をすると、興味を持つ学生もいます。
「覚えられない」と辟易する学生に言うとある程度効力を発揮するのが、
「これはね、サムライの言葉です」。
昔の言葉、というと「今はつかわない」と解釈する学生もいるので、あえてサムライを使います。
侍がいないのは学生ももちろん承知ですが、なんとなく憧れがあるというか(笑)
余裕があるときは時代劇の和語数字が出てくる場面を見せたりするといいかもしれません。
結局は覚えるしかない語彙であることに変わりはありません。ですが、少しでも興味をもってくれること、なにか印象に残る話を添えるのもたまの変化球としていかがでしょうか。
N2文法 〜ないわけにはいかない/〜ざるを得ない
N2文法
〜ないわけにはいかない/〜ざるを得ない
N2新完全マスターに登場する文法です。
Aないわけに(は)いかない:Aしなければならない Vない(意思)+わけにはいかない
Aざるを得ない:しかたなくAする Vない(意思)+わけにはいかない
結局「しなければならいない」だよね。
わたしたちも感覚で使い分けてる文法です。
教科書によっては続けて登場するので、学生は混乱しがち。
比較❶
○親戚なんだから、富山のおじさんを呼ばないわけいにかない。
○親戚なんだから、富山のおじさんを呼ばざるを得ない。
→どちらも違和感ありません。少し受ける印象が違います。
比較❷
○どんなにお金がなくても、食べないわけにはいかない。
×どんなにお金がなくても、食べざるを得ない。
→「ざるを得ない」は違和感があります。
比較❸
?この天気じゃ明日の登山はあきらめないわけにはいかない。
○この天気じゃ明日の登山はあきらめざるを得ない。
→「ないわけいにはいかない」はなんだかよくわからない文になってしまいました。
まとめると、この文型は「〜なければならない」に置き換えることができる場合はどちらを使ってもOK。
ですが、場面によっては置き換えができません。それぞれを詳しく見てみましょう。
「Aないわけにはいかない」は「Aをする義務がある/Aをする必要がある」、
「Aざるを得ない」は「残念だがAをしよう、いやだけど」という意味。
<比較①の場合>
◆呼ばないわけにはいかない
→親戚という関係上、呼ぶ義務がある。この場合、話者の気持ちは含まれていません。
◆呼ばざるを得ない
→親戚という関係上、断れない。嫌だけど、呼ばなければならない。この場合、話者は「呼びたくない」という不快・残念の気持ちがあります。
<比較②の場合>
◆食べないわけにはいかない
→生きるための「必要」。ですから文として違和感はありません。
◆食べざるを得ない
→「嫌だけど、食べなければならない」?死にたいの?ということで、この文の場面では「ざるを得ない」を使うと違和感があります。
比較③の場合、これは難しいですね。
あきらめないわけにはいかない?????
よくわかりませんね。
もう少し比べてみましょう。
?君がそんな態度を続けていたら解雇しないわけにはいかないよ
○君がそんな態度を続けていたら解雇せざるを得ないよ
これも「わけにはいかない」は違和感があります。
「あきらめざるを得ない」「解雇せざるを得ない」この場合、話者にとって他に選択肢がありません。つまり「〜ざるを得ない」には「嫌なんだけど、他に選択肢がないからA」という意味。
対して「〜ないわけにはいかない」は他に選択肢があり、何なら選ぶこともできるけど義務やその他事情でAしなければならない=自らAを選択する、と言うことができるでしょう。
ですから文脈から他の選択肢がないとわかるときは「〜ざるを得ない」を使うと文がしっくりきます。
ちがいを求めがちな学生に聞かれたら、
「チェンジができる場合もあります。
でも、『ないわけにはいかない』は義務(duty)や事情(circumstances)があるのでA。『ざるを得ない』は嫌だけどno choice。
だからチェンジすると、嫌なんだけど、がプラスされるから注意が必要です。」と条件を付け加えておくといいかもしれません。
日本語教師という仕事。
2019年の入管法改正にともない注目されるようになった職業「日本語教師」。
日本語教師、どんな仕事だと思いますか?
そうです。
日本語を教える仕事です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
私たちが教えるのは普遍的な言葉のルールです。
意識せず使ってる私たちの国語を教えるのではありません。
日本で教えていたとき、この職業を言うと二言目には
「すごーい。じゃあ英語かなりできるんですねー」
海外に住んでいる今、この職業を言うと二言目には
「へー。じゃ日本にいたときは何やってたの?」
はじめのうちはこの質問になんの違和感もなかったけど、海外に来て違和感が鮮明になりました。
英語使いませんよ、全部日本語で教えてます。
と答えると
「へー…そうなんだー…。」
穿った見方ですが、その…にあるのは
「じゃあ誰でもできるじゃん」。
日本にいた時から教えてますよ。なんなら検定も合格してますし。
と答えると
「あ…、それは失礼しました」
穿った見方ですが、失礼しました、の意味は
「海外住みたい奴が選ぶ簡単な仕事でしょ、日本語教師って」。
日本における日本語教師のイメージはこれです。
英語が必要。そうじゃないなら誰でもできるよね。
海外住みたい奴が日本人ってのを最大限活かせる仕事。
実際はどうでしょう。
誰でもできる仕事=この如何様にも消え去らないイメージのおかげで、日本語教師の賃金はとても低いです。
1コマ45分@1,800×4コマ=7,200円(あくまで平均です)
これが1回の授業の給料です。
え!45分1,800円てめっちゃ高いじゃん!!
って思います?
4コマの授業をするのにどれだけの準備が必要でしょうか。
これは学校・担当科目・以前やった経験などで大きく変わりますが。
私は1年目は準備に毎回18時間かかりました。
ですから実質労働時間で考えてみると、
1コマ45分@1,800×4コマ=7,200円
→7,200円÷(授業3時間+準備18時間)=342円/時
もう搾取レベル!
慣れてきたら短くなるでしょ?って言いたいと思いますけど、一度やった授業が半年後や一年後に回ってくるのは奇跡だし、3年は準備し続けなければならないのです。
しかも非常勤掛け持ちだと学校によってアナログやデジタルと方針が違うので一様ではありません。
(私が1年目で行ってた学校は、A校は4コマ分のスライド準備が必要。B校は授業1週間前に教案提出が義務。C校は野放し。)
当たり前ですが授業準備をしなければならないので、他のバイトも必然的に減っていきます。
また学校行事や夏休み・テストなどで非常勤の出勤が不要の場合、給料はありません。コマ給ですから。
そして非常勤の場合、専任と違って学生と接するのは週に1回ですから皆さんが想像するようなスクールウォーズ的な感動話もありません。
………じゃあ、なんでこの仕事やってんの?
この答えがわからなくなって辞めていった先人たちがたくさんいたと聞いています。
私の場合、日本語教師になったキッカケは不純なものでした(これ本当)。
今ではのそ当初の目的を失っていますが、この仕事を続けています。
ある先人が教えてくれました。
「彼らは日本語を武器にしてお金を稼ぎたいんだよ。この仕事は武器を渡して使い方を教える仕事。それだけ」
「日本語で仕事ができる人を作る。これは貧困を助けることに、大きく見れば繋がるんだ」
稼げる人を作る。生々しいけどこれはシンプル。
そのための日本語。それ以上でもそれ以下でもありません。
目的をたくさん持ってしまうと、得てして見失いがち。わたしの今の目的はこの単純すぎる一つだけです。
でも現状の日本語教師の待遇では私たちが稼げへんがな、と思ってしまいますが。
クラスに1人でも真剣にノートをとる学生がいたり、「あ、わかった」という瞬間の顔をみると、もう少し続けようと思ってしまうものなのです。
今は南アジアににいるので特に思います。
この学生が日本語で仕事ができるようになって、生活できるようになったら。この子の人生は変わる。
一人でも二人でも彼らの人生が変わる手伝いができるなら、この仕事も悪くない、安いけど。
そういう思いを持って仕事ができるのも悪くない、安いけど。
そんな思いで道をつけてくれた先人たちのあとを、私は歩いているのです。
N2文法 〜てしょうがない/〜てたまらない
N2文法
〜てしょうがない/〜てたまらない
これはN3に分類されている場合とN2に分類されている場合と、教科書によって異なります。
新完全マスター・日本語総まとめはN2
TRY!・スピードマスターはN3でそれぞれ登場しています。
ここでは老舗教科書に合わせてN2文法としておきます。
Aてしょうがない:とてもAと感じる Vて/いA くて/なA で+しょうがない
Aてたまらない:とてもAと感じる Vて/いA くて/なA で+たまらない
おなじです。
強くAと感じる、Aという感情・感覚をおさえることができない。と多くの教科書には書かれており、主に自分の感情・感覚を表現するときに使います。
第3者について使う場合は「〜ように見える」「〜ようだ」「〜はずだ」など「〜と思う」系統の文法と合わせて使われることが多いです。
教科書ではこの2つに「しょうがない」のバリエーションの「〜てしかたがない」が加わり、違いを求めがちな学生は少し困ってしまいます。
基本的には同じですが、「くらべてわかる日本語表現文型辞典」に基づいて少し比較してみましょう。
比較❶
○ロックダウンが続き、この先どうなるか不安でしょうがない。
○ロックダウンが続き、この先どうなるか不安でたまらない。
→どちらも違和感ありません。
比較❷
○さっきから歩きっぱなしで、のどが乾いてしょうがない。
△さっきから歩きっぱなしで、のどが乾いてたまらない。
→「てたまらない」にほんのわずか、違和感を感じるような…。
比較❸
×仕事終わりのビールはうまくてしょうがない。
○仕事終わりのビールはうまくてたまらない。
→「たまらんなぁ〜」に代表されるこの場合。「〜てしょうがない」は違和感があります。
まとめると、この文型はとても似ていてチェンジがOK。
ですが、場面によっては置き換えができません。それぞれを詳しく見てみましょう。
「〜てしょうがない」は「Aの気持ちを抑えることができない」、
「〜てたまらない」も「Aの気持ちを抑えることができない」という意味。
ですが「たまらんなぁ〜」は「しょうがないなぁ〜」に置き換えできません。この状況を例文③でもう少し詳しくみてみると、「仕事終わりの乾杯から1杯目のビール、今この瞬間に抑えることができない気持ち。それもマイナスではなく超プラス、つまり最高。」
「〜てたまらない」には「Aを抑えることができない」の他に①今この瞬間②最高、という意味を含んでいると言えます。
「〜てしょうがない」には今よりも少し長い時間続く感情に使うとしっくりきますし、最高!という意味はありません。
ですから比較③のような場面で「〜てしょうがない」を使うと違和感があります。
おまけとして。教科書によっては、
・〜てたまらない、は体の感覚につかう(例;かゆくてたまらない)とありますが、正直なところ体の感覚に「〜てしょうがない」を使ったところで違和感はありません。
文法の教科書に登場する例文くらいの長さですと、Aが長く続いているのか・その瞬間なのか判断できないことが多いからです。
比較④
○孫がかわいくてしょうがない。
○孫がかわいくてたまらない。
→時間や場面を特定できる要素がないので、どちらも○
比較⑤
△節分の鬼をみたとたん、弟は怖くてしょうがないらしく大泣きした。
○節分の鬼をみたとたん、弟は怖くてたまらないらしく大泣きした。
→「鬼をみた」という時点が特定できるので「〜てしょうがない」は少し違和感があります。
ちがいを求めがちな学生に聞かれたら、
「2つともとてもよく似ていてチェンジができます。でも、今!や最高!という気持ちがあるときは〜てたまらない、がいいね。」と条件を付け加えておくといいかもしれません。
N2文法 〜はともかく/〜はさておき
N2文法 〜はともかく/〜はさておき
AはともかくB:Aは今は考えないでB(強調)
AはさておきB:Aは今は話題から外してB(優先)
正直なところ、日本人としてそこまで明確な使い分けはないけど結構使っているこの文型。
まぁよくわかりません。
ともかく=強調/さておき=優先と書いてありますが、そもそも強調と優先って鶏ー卵関係のようなもので、はっきりわかりません。教科書によっては続けて登場するので学生が混乱します。
一生懸命勉強する学生ほど、違いを求めがちです。
比較❶
○年齢はさておき彼女のフットワークの軽さは若者並だ。
○年齢はともかく彼女のフットワークの軽さは若者並だ。
→どちらも違和感ありません。ごくごく少し、受ける印象がちがいます。
比較❷
○海外で生活する機会があるかはさておき、英語力は身につけておいたほうがいい。
○海外で生活する機会があるかはともかく、英語力は身につけておいたほうがいい。
→どちらも違和感はありません。ごくごく少し、受ける印象がちがいます。
比較❸
○冗談はさておき、今後のことを決めておこう。
○冗談はともかく、今後のことを決めておこう。
→強いていえば、「はさておき」のほうがよく使うような…。
まとめると、この文型はとても似ていてチェンジがOK。
「〜はともかく」は「Aは考えずに、言いたいことはB」という意味。
もうちょっと補足で広げてみると「Aについてはちょっと考えるのやめよう、考えると後件Bの評価が変わるから。総合評価ではなく、単体評価で言いたいことはB」。
評価がかわる要素を排除して、言いたいことを述べる文法です。
「〜はさておき」は『比べてわかる日本語表現文型辞典』によると大まかに二つの使い方があります。
ひとつは「〜はともかく」とほとんど同じように「Aについては考えずにB」の意味。これは置き換えが可能です。
もうひとつは「今の話題Aをやめて、B」。
この話題を変える使い方は「〜はともかく」にはありません。
比較❸をもう少し見てみましょう。
冗談はさておき、今後のことを決めておこう。
冗談はともかく、今後のことを決めておこう。
これは「冗談・前置き・文句・挨拶」など、話を本題に切り替えるときに使うことが多いです。ですから、ここで「〜はともかく」を使うと少しですが違和感を感じます。
ですが先に述べたように、この2つに厳密なちがいはないと言っていいでしょうし、その違いを問う問題はありません。
ちがいを求めがちな学生に聞かれたら、
「2つともとてもよく似ていてチェンジができます。
冗談はさておき、やなんかは今のトピックをチェンジするときに言うイディオムみたいなもの。」とまとめるといいかもしれません。